社長インタビュー

代表取締役の西森功さんは、2019年に経営のバトンを父であり、創業者の西森鶴会長から受け取り、株式会社西森建設をさらに高みへと導くための挑戦を続けています。

2代目として、会社を導く上での心構えはどのように培われたのか。その原点を探るため、西森社長の過去を振り返ってゆきます。

凧揚げ

当時は西森建設の黎明期でしたから、両親ともにとても忙しくしていました。

私が幼い頃は近所の方たちに大変お世話になり、そのおかげで大きくなったようなものです。
家の周りは山や川に囲まれ遊ぶ場所には困りませんでした。いつも野山を元気に駆け回っていた子供時代でした。
生まれてから2歳くらいまでは、大イチョウの立派な大木がある観音堂の隣、現在の実家ですが、そこに住んでいました。
その後、長者スーパー横の自宅兼事務所に引越しをしてからは、会社の方たちと触れ合う機会も増えました。
振り返ってみれば、会社は幼いころから身近な存在だったように思います。

自宅の前に村営のテニスコートがあり、そこで家族と夕暮れに軟式テニスをしました。父はあまりスポーツをするタイプではありませんでしたが、運動は好きだったようです。忙しいなかでも、父は仕事の合間に遊んでくれることもありました。
鳥撃ちの猟に連れていってもらったことや、凧揚げが非常にうまくて、自作の凧を空高くあげてくれたことなど、今でも鮮明に覚えています。

小学校から中学校にかけて、学校のソフトボール部に所属しました。

高知県はソフトボール熱の高い地域ですが、なかでも私たちの地域は昔から強豪がそろい、中学のときには県大会で準優勝しました。
ソフトボールは、1球ごとに情勢が変化してきます。アウトの数、ランナーの有無、カウント数・・・。
状況に応じて、指示やそれぞれの役割が変わってくる。広い視野で流れを見て、試合に勝つためには全体をどのように動かしていくかということを、監督は教えてくださいました。
ある意味、組織運営にも通じる部分があるのかもしれません。

中学1年の秋に骨折をしてしまい、翌年の夏くらいまでボールを投げられない状態が続きました。
トレーニングをしつつ、監督の横について選手のスコアをつける日比を過ごすなかで、監督から受けた教えは、その後の自分の糧になっています。

高校では、顧問であり3年間担任であった先生に誘われてボクシング部に所属しました。
ソフトボールでも、打席に立つときや守備のときは個人技のような気持ちになりましたが、ボクシングで初めてリングに立ったとき「本当に一人で闘うというのはこういうことだ、今まで自分が守っていると思いながら自分も皆に守られていたのだ」と実感しました。メンタル面では大きく鍛えられたと思います。

高校卒業後の進路は非常に迷いました。

一つは、昔から馬が好きでしたので、馬関係の仕事をしてみたいという気持ちがあり、大学は獣医学部に絞って受験しました。しかし、願いは届かず残念な結果に。
そこで、心にあったもう一つの道、つまり家業に続く進路を選んだのです。そのために、まずは東京の土木系専門学校に入りましたが、もっと専門的なことを知りたいと感じるようになり中退し、地質調査会社に就職しました。

会社といっても、事業主と私の二人だけの小さな組織。事業主はかなり腕の立つ人で、仕事のことしか頭にないような人でした。
毎回出張で、東京に帰ってくるのは月に2回ほど。
群馬や栃木、埼玉の奥地、遠いところでは岐阜や長野にも行きました。どんな山奥で何が起こっても対応できるよう、大坪さんは段取りや道具の準備、管理を徹底していました。その姿勢から学ぶものは多くありました。
3年ほど勤めたのち西森建設に入社したのです。